后续战略的几点说明
眼看着影岛海战就要结束了,接下来将是庆长之役的转折点“稷山之战”,虽说借用了历史上的名称,但具体经过绝对不同,大家就别急着百度了。 历史上,稷山之战过后日军全线后撤,有人不理解,眼看着打到汉城了,为何临阵退缩呢? 我查了些资料,总结了以下两个可能的原因。 第一,按照此后的记载,日军乃是退到海边加固城池,以备来年再战。 这条我不太信服,正如历史上所说,日军前脚撤退,明朝联军便立即组织大军反击,蔚山之战,泗川之战,顺天之战便是证明,根本不会给日军留有时间修筑工事。 不过固守城池,轮换回国休养倒是有些踪迹可寻,根据庆长二年二月二十一日秀吉颁给立花宗茂的朱印状来看,确是出于休养生息的考虑。 附原文: 一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。 (全羅道を残さず悉く成敗し、忠清道や京畿道もなるべく攻略せよ。) 这条最重要,秀吉的作战目标是全罗道完全占领,忠清道和京畿道适当攻占。稷山之战时日军亦达到初期目标,随后仍向北进入京畿道竹山一带,也算是“适当攻占”吧,之后才是大军南撤,可见稷山之战对日军并未造成相当大的影响,也不存在所谓的战败南撤一说。 一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。 (それが済んだら仕置きの城の守りを固め、在番の城主を決めてそれ以外は帰国せよ。) 这句话意思是到那时(就是南撤后),除了几座据点的城主留下防守外,其余部队皆回国休养。 一、自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、案之内候之條、於由断者可爲越度事。 (大明の大軍が襲来したら余自ら馬廻衆を引き連れて渡海し打ち破り、大明まで進撃しよう。) 这句话是秀吉对将士的勉励,意思是到时候他会亲自率领马廻众渡海作战,当然,以当时的身体状况来看,不过是嘴上说说罢了。 第二,也是本书中我准备采纳的观点,秀吉如此乃是疲敌之计,具体论证见下: 明軍に大勝した日本軍は、築城を完成させ防衛体制を強化すると再度の出兵に備えて半数以上の軍勢が日本本土に帰還し②も達成されました。(此战过后,日军计划修缮城池,将半数兵力撤回本土) ここで、慶長の役の作戦の成功を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計画し、さらに明朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で休息をとっていた 日本軍を1599年に再度朝鮮に派遣する号令を発します。(很明显,是计划两年后再度进攻,以劳敌师) 具体依据便是下面所列的资料: 『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたよう
です。さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めておりました。 『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』「来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり 『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』「度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候 そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計画は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計画していた明軍は本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかかりましたが、大敗します。(意思大体是来年的反攻计划因为秀吉的死而流产,日军的出兵计划也因为明朝援军的抵达而被迫中止,此后便是蔚山、泗川、顺天等地的日军开始溃退了。) 综上,熊仔认为稷山过后日军并未全线溃退,而是战略后撤(当时明军的第二波援军尚未抵达,对日军造不成威胁),以待休养后来年再度进攻,如此持续下去,已达到疲敌的效果。 因此,本书接下来将会以此作为基调,接下来的章节如果出现与此相关的事件,将不再多做解释,请大家理解。